私が高校生の頃は、とにかく家から自立したくて、というより東京に行きたくて、どうやったら両親を説得できるか?そんな事ばかり考えていました。両親は、ともに東京に行くことには反対で、地元の大学の農学部に行って欲しかったようです。両親を説得するには、やはり小細工なしの直球勝負だ!と心を決め、「東京農業大学だけ受けさせて下さい、落ちたら諦めます。」と嘆願し、なんとか合格。晴れて東京での学生生活がスタートしました。卒業が近づくと、「早く帰って来い」という両親を「JA全共連」だけ受けさせて下さい、落ちたら新潟へ帰ります。」と嘆願し、なんとか内定。めでたくサラリーマンとなりました。仕事も楽しく、自分自身の社会人としての成長の実感もあり不満はなかったのですが、週末ごとにスキーやアウトドア生活をしているうちに、田舎暮らしもいいなと思ってきました。また、満員電車に揺られ、深夜までの残業続きの生活が日常化する中で、子育てをする環境としては、故郷新潟のほうがいいかな~と考えるようになりました。ある日、意を決した私は、彼女に「新潟へ帰って農家にならない?」と伝え、「まずは1回行ってみよう」と、新幹線に飛び乗り、一緒に新潟駅の万代口に降りたちました。私の中では「どうだ!結構都会だろ!」という気持ちでしたが、彼女から不意に出た言葉は「暗いね~」でした…。
今思えばあの言葉がプロポーズの言葉だったように思うのですが、いまだに妻には「プロポーズをされていない」と言われます。
そんなこんなで、無事新潟へUターンしました。帰ってきて農業を始めてみると、農家の長男のくせにトラクターにも乗ったことが無くて・・・とにかく最初は見よう見まねの素人でした。幸い我が家は8軒の農家で農業機械を共同所有・共同作業しており、父以外の先輩に指導してもらうことも多く、無事1年を努めあげることができました。驚くことに2年目がスタートする直前に、「お前が全部経営してみろ」と父から通帳と印鑑を渡され、経営者となりました。
通帳の中身が1,000円しか無かったことはさておき、まずはじめに、何のために仕事をするのかその芯をしっかり持とうと、経営の理念というものを考えました。
次世代を担う子ども達に「楽しい食の記憶」を提供するために、事業を通じて貢献したい。作物は、「土、水、太陽、空気、いろいろな生き物・・・」これらの豊かな自然のバランスによって育まれるものという基本を忘れず、旬を大切にし、本来作物が持っている「ちから=おいしさ」を最大限引き出すよう努力します。」
そうです、タカツカ農園としてスタートした瞬間でした。